神について -2神について -2永遠絶対不変の存在である神には、智慧と慈悲という二つの面があります。 智慧は非人格的で、慈悲は人格的であります。 仏教は本来智慧と慈悲の教であったのでありますが、お釈迦さまが亡くなられて七百年後、大乗仏教時代になると、仏の慈悲だけが強調されて智慧が忘れられてきました。 キリスト教も「神は愛なり」といって愛だけが特別に強調されるようになりました。 それが原因で今日、仏教もキリスト教も大きく原点から歪んできて、信仰といえば、知性とか理性とか智慧の面を忘れて、感情的に信仰するというような事になってしまったのであります。 信仰は智意と慈悲をもってしなければ、正しい信仰とはいえないのであります。 神は絶対であり、あらゆる相対的存在の本源であり、自然を自然たらしめている一切の形体、現象の本源であります。 神が一大創造のエネルギーの源泉であることは、既に科学者達が認めております。 科学者は最初、神の存在を否定して物質だけがあると考えて、物質の研究を進めてきました。 物理化学の法則が発見され、物質を細かく分析しているうちに分子原子の存在が分かり、更に原子は素粒子、中性子から成り終局はエネルギーに還元することを発見しました。 仏教的にいえば「無から有が生じた」のであり、西田哲学のいい方ですれば「目に見えない存在が目に見える存在」になったわけです。 神の智慧、非人格面というのは、神は法として法則として現われて、一切を存在せしめ給うたということであります。 非人格的存在としての神が、どのようにして現象化するか高橋信次先生がよく引用されたのに「水」があります。 エネルギーは水素分子と酸素分子をつくります。 水素と酸素と化合してH2O水を生じます。 この水は条件によって形を変えて蒸気という気体、水という液体、氷という固体に変化します。 H2Oという本質は絶対不変です。 H2Oとしての本性を保ちつつ、現象界では多様に変化します。 一なるものが多として現われるのであります。 原子物埋学は古典的な物理化学者達が、物質は物質として単独に存在すると考えてきたことは、間違いであって、物質はエネルギーの変形にすぎないということを証明し、エネルギーが物質化するにはそこに一定の法則がある、ということを発見したのであります。 ですから宗教的な表現をするならば、物質は物質という形に現われた神の生命である、というのであります。 エネルギーが物質化され、物質化されたものと物質化されたもの、相互の間に働く法則は、神が創られたのであって、この法則を創ったのが神の智慧であります。 非人格的ということは、人の心の愛僧に関係なく働くということであります。 例えば水を沸かしたら、日本では摂氏100度で沸騰したが、アメリカでは50度で沸騰したとか、愛の深い人が沸かしたら30度で沸騰したが、神はないという無神論者が沸かしたら200度でないと沸騰しなかったとかではなく、時と所、そうして人の心に関係なく、いつでも、どこでも、誰がやっても同じ結果が出るというのが法則であり、人格に左右されるものでなく、一定の秩序をもって働くそのカを智慧というのであります。 それが科学の法則即ち原因結果の法則であり、その法則を一定不変、そうして普遍性あるものとして創られたのが神であります。 ですから、その人が善人であろうと悪人であろうと、そういうことには関係なく、その人が物理化学の法則を知って、その法則の通りにすれぱ、同じ原因に対しては必らず同じ結果が出るということになるのであます。 天文学、地球物理学等いろいろな学問が発達して来て、今まで分からなかったことが次第に明らかになってきました。 宇宙の構図、天体の運行、星の神秘さが研究されるに従って、この宇宙は決してばらばらに運行されているのではなく、この宇宙を統一して一糸乱れずに整然として運行させている統一意識があるということを認めざるを得なくなりました。 また物質と物質との間にも、一定した法則が働いていることが発見され、この宇宙の一切のものは、神と名付けるしか外にしようがないところの、智慧ある意識体によって創造されているということを、認めるようになったのであります。 正法誌12号1979.8より抜粋 |